東奥義塾を築いた人
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。
だが、死ねば多くの実を結ぶ。
聖書(ヨハネ12-24)
津軽 承昭(つがる つぐあきら)
津軽藩の12代目となった最後の藩主。寛政8年(1796)に創設され、廃藩置県により廃止された東奥義塾の前身・津軽藩校「稽古館」を財政援助し、明治5年(1872)「東奥義塾」として再建させました。
菊池 九郎(きくち くろう)
明治2年(1869)慶応義塾に留学。帰郷して東奥義塾を創立し副幹事に就任しました。青森県議会議員、初代弘前市長、第1回衆議院議員選挙で当選し以来連続9回当選。山形県知事を経て再度弘前市長に選出されました。また東奥日報社を創立し初代社長となりました。東奥義塾再興に尽しています。
本多 庸一(ほんだ よういち)
津軽藩校「稽古館」に学び藩命により横浜に留学、明治5年(1872)宣教師ブラウン・バラの教えを受けキリスト教に入信。帰郷して塾長に就任。青森県議会議員、県議会議長、第2代青山学院長を歴任し、日本メソジスト教会初代監督となりました。
ジョン・イング
明治7年(1874)第3代英語教師として赴任。本多庸一と共にキリスト教の伝道を始め、弘前教会を設立。リンゴ、西洋野菜を紹介し栽培の指導をしました。またイングの母校インディアナ・アズベリ大学へ塾生5名を留学派遣しました。
笹森 順造(ささもり じゅんぞう)
幼少に弘前教会で受洗、早稲田大学、米国、デンヴァー大学、大学院を卒業。大正11年(1922)再興初代塾長に就任、東奥義塾の基礎を築きました。青山学院長、衆議院議員、参議院議員、国務大臣を歴任しました。また小野派一刀流宗家でもあります。
日本ジャーナリズムの先駆者
陸 羯南(くが かつなん)1875年-1907年
安政4年(1857)青森県弘前市生まれ。東奥義塾、宮城師範学校に学び、明治21年(1888)「東京電報」(翌年「日本」と改題)を創刊。社長兼主筆として言論の自由を訴えました。
東奥義塾出身で、新聞「日本」を創刊、明治ジャーナリズムの先駆者として活躍した陸羯南。時は皮相な欧化政策や藩閥政治の専制が広がる世の中、羯南は新聞「日本」の主筆として「言論の自由」や「国民主義」を主張します。政治に対して鋭い批判を加えたため相次ぐ発行禁止処分を受けますが、屈せず主体的な国づくり訴え続け、最盛期には年間約686万部を発行します。後の日本を代表する記者たちも薫陶を受け、俳句や短歌の革新を先導した正岡子規を、物心両面から支えたことでも知られています。羯南のジャーナリズムの原点は、津軽の風土。東奥義塾時代の同窓には、外交官珍田捨己、佐藤愛麿、陸軍大将一戸兵衛、養生哲学の創始者伊東重らがいました。 東奥義塾の玄関ホールには、生徒がしたためた羯南の漢詩「名山詩」が掲げられています。
福士 幸次郎(ふくし こうじろう)
詩人。1925年(大正14年)東奥義塾教師として在職,詩集『太陽の子』『展望』を出版し,佐藤紅緑の書生。一戸兵衛、養生哲学の創始者伊東重らがいました。 東奥義塾の玄関ホールには、生徒がしたためた羯南の漢詩「名山詩」が掲げられています。
今 官一(こん かんいち)
直木賞受賞作家(小説家)。1922年(大正11年)東奥義塾に入学,福士幸次郎が赴任時の4学年に在籍。福士との出会いにより文学に開眼し1956年(昭和31年)『壁の花』で直木賞受賞。なお,現在に至るまで直木賞を受賞した青森県出身の作家は2名,芥川賞においては1名,数少ない中の一人である。また,今は上京直後の無名の太宰治と生原稿を批評し合っていたようで,太宰を「海豹」の同人誌に推薦し,文壇デビューのきっかけを作ったのは今だった。